ワトルズの教え~双極性障害の私が2年半で年収1000万円になった話とこれからの話

双極性障害があり、困窮していた私が100年以上も前に書かれた書籍を読み込み、実践することで経済的にも豊かになり、幸せになった話をときには楽しく、ときには大真面目に書いていきます。

クズな私の話 ~ ワトルズの教えと出会うまでの悲惨な生活⑦

こんにちは!ワトルズの教えの伝道師、金井戸 隆と申します。

 

私のクズっぷりを書いてきたこのシリーズもいよいよ残すところあと2回となりました。私は、今の職場に就職してから、ワトルズの教えを実践することで、私自身も変わったと思っていましたが、この記事を書きながら、実はその前から少しずつ考え方や行動が変わっていたことに気付きました。

 

新しいスタート

長男の専門学校は、3年で課程が修了するところでした。高校の推薦もあり、入学金の一部が免除になりましたが、それでも我が家の家計では残りの入学金を払うのも大変でした。学費以外に1冊が高額なテキスト代や作業服代などがかかり、妻と何とかかき集めました。

 

長男が脳出血を起こした際、主治医の先生が言われていたのですが、あと少し出血するところがズレていたら、長男に大きな障害が残っていた可能性があるとのことでした。

 

私は、特定の宗教を信仰しているわけではありません。家の近くにある神社で、私と妻は結婚式を挙げたのですが、その神社が祀っている神様が私にとっての神様でした。

 

私は神様にとても感謝し、作業療法士を志す長男をとても誇らしく思っていました。私のようなクズにでも、神様は手を差し伸べて下さり、息子は絶望的な状態から奇跡的に回復し、天職と言える仕事を選ぼうとしている。

 

私にとっては、専門学校の学費をきちんと納め、長男を無事に卒業させることがとても神聖なことのように思えました。

 

ただ、現実は甘くありませんでした。

 

半年ごとに60万円の授業料と20万円のテキスト代がかかります。長男は奨学金を借りてくれていましたが、それでも足りません。

 

どうしても次の授業料を期日までに納めることが出来そうにありませんでした。

 

そこで私は、専門学校の事務所に出向き、授業料が間に合わないことを伝え、お詫びしました。

 

担当の方はとても親切な方で、そういう方には半年間、学費の納入を待つ制度があることを教えてくれました。

 

学費納入日延期の申請書類を書くように言われ、それを記入していると、担当の方が笑いながら、「お父さんのように遅れることを直接言いに来られた方は初めてですよ。大概は何も連絡して来られなくて、こちらから催促して、今書いてもらってる書類を郵送しています。」と言われました。

 

支払いが遅れることに変わりはありません。出向いて直接お詫びすることは自己満足でしかないのかもしれません。何なら電話で済ます方が、忙しい事務員さんのお手を煩わすこともないのかもしれません。

 

でも私は、それでは筋が通らないと思っていました。恥ずかしく情けないのですが、直接顔を見せ、遅れる旨をきちんと伝え、お詫びすることが正しいことだと思っていました。

 

今思うと、この頃から私の中の何かが変わり始めていたのかもしれません。

 

長男が入学した年の秋頃に、私はホテルマンとしての実習を三重県で受けていました。

 

もう歩合を当てにするのはやめて、高くなくても安定して収入が入り、ストレスのない営業ではない仕事に就いたらどうかと妻が提案してくれたからでした。

 

提案というよりは、相変わらず仕事を度々休んでしまい、収入が安定しない私への妻の妥協案でした。

 

そこで、以前から、人当たりが柔らかいので向いていると周りの人によく言われ、私自身もこれまでの経験からそう思っていた、ホテルマンの職種を選んだのでした。

 

実習は1ヶ月程でした。

 

手持ちのお金がなく、毎日ただで食べられるホテルの朝食ビュッフェをたらふく食べて、昼食、夕食、飲み物代などを1日500円に切り詰めて生活していました。

 

実習前には、ほとんど家に収入を入れなかった為、妻からは「今後の結婚生活を続けるか考えさせて欲しい」と言われていました。

 

そのため実習中も妻からは一切連絡がなかく、食事を切り詰めながらやりくりしていたので、実習から帰った時には、私の体重は10キロ落ちていました。

 

何をやっても私から離れることがないだろうと高をくくっていたので、妻から三下り半を突き付けられたことはとてもショックで、どれだけ自分が妻のことを好きだったのかをあらためて認識したのでした。

 

ただ、この家族と離れた1ヶ月の実習期間は、自分のことをゆっくりと見直すことが出来た、とても貴重な時間でした。

 

12月下旬から福岡で開業するホテルのオープニングスタッフとして、私はホテルマンの第一歩をスタートしました。

 

福岡に戻ってからは、私が真剣に仕事に取り組んでいたので、妻から三下り半を突き付けられることはなく、普段通りに接してくれました。

 

ホテルの仕事は体力的に大変でした。私はお金を稼ぎたかったので、時給が上がる夜勤に継続して入っていました。

 

ただ、営業のようなストレスもなく、勤務がシフト制ということもあり、仕事を休むことはありませんでした。仕事も誠実にやっていました。

 

ホテルに宿泊するお客様は、非日常を楽しむ目的で来られています。ですから、気分のいい思いをしてもらいたいという気持ちでお客様に接していたせいか、旅行サイトの評価コメントでは、お客様から名指しで、接客をお褒め頂くことが度々ありました。

 

最後の転職

しかし、これで順風満帆ということにはなりませんでした。

 

いくら頑張って接客しても、ほとんど毎日夜勤に入ったり、残業したりしても、給料が安かったのです。

 

これでは、長男の学費が払えません。

 

そこで私は、夜勤後にもうひとつ仕事を掛け持ちするようになりました。

 

収入が少ないために、長男が学校をやめなければならなくなるなど、絶対あってはならないことでした。

 

しかし、そうするとさすがに毎日の睡眠時間が3時間半ぐらいになりました。そのため、当時は、どこにいて何をしていても寝落ちするようになっていました。

 

妻も長男の学費の為に、看護師の仕事と介護施設の仕事を掛け持ちするようになっていました。

 

看護師としての仕事を夜勤明けまでやった後に、続けて眠らずに介護施設に入り、慣れない介護の仕事を夕方までやっていました。

 

後から聞いた話なのですが、この頃、妻の髪は毎日ごっそり抜け落ちていたようでした。

 

私も妻も、もう限界でした・・・。でもこれは全て、これまでの私の生き方のせいでした。

 

そして、いろいろ考えた挙句、私は決めました。もう一度営業に戻ろうと。それしか、今の状況を打破する方法はありませんでした。

 

それからは、2つの仕事を掛け持ちしながら、就職活動をしました。

 

ホテルには、職場や同僚に不満などないこと、今の収入だと学費が払えないということを告げ、ホテルのルールに沿って半年後に退職する旨を伝えました。これまでの様に、急に自分の都合で辞めるのは仲間にも会社にも悪いと思いました。

 

そしてそんな辞め方をするとまた、次の職場でも上手くいかなくなると思いました。そんな風に考えたのは初めてでした。

 

今回は、これまでです。ここまで読んで下さった方ありがとうごさいます!

 

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kotoshotenさんに依頼したイラスト。見た覚えのある黄色い花を青い鳥が運んできました。一連のストーリーのあるイラストをありがとうございます!

 

宇宙の叡智に感謝します!