こんにちは!金井戸隆(かねいどたかし)です。
今回は、ワトルズの教え的映画と題しまして、鑑賞した映画から感じたワトルズの教え的な考えを論じたいと思います。
先日、『キングスマン:ファーストエージェント』という映画を見ました。
映画好きの方ならご存じだと思いますが、『キングスマン』という映画のシリーズの最新作です。
キングスマンと呼ばれるどこにも所属しない独立した架空のスパイ組織の話で、エンターテイメント性が高く、私も最新作を待ち望んでいたのですが、新型コロナウィルスの影響で公開が延期になっていました。
映画はとても良くできており、とても面白かったです。ただ、作品の感想はこれぐらいにとどめておきたいと思います。
実は映画の冒頭で、登場人物がとても「ワトルズの教え」的なことを言うのです。
私は、その発言でとても腑に落ちることがあり、今回はそれをテーマに書かせていただくことにしました。
高潔とはどういうことなのか?
ウォレス・ワトルズは、その著書の中で「高潔であること」を勧めています。
もちろん、高潔であることは素晴らしいことです。でも私には具体的にどういう行動をすることが「高潔である」のかよく分かっていませんでした。
ウォレス・ワトルズは、『お金持ちになる科学』という著書で有名なのですが、私のブログでも書いている通り、『高潔な人になる科学』という著書も書いています。
私は、毎日これらの著書を1章づつ繰り返し読んでいます。
ただ、『お金持ちになる科学』の方はお金持ちになるという目的が明確になっているので、その方法や考え方がすんなり頭に入ってくるのですが、『高潔な人になる科学』ではその目的が明確でないために理解が難しいと感じていました。
「お金持ちの人も貧しい人も平等である」
『キングスマン:ファーストエージェント』の冒頭でこういうシーンがあります。
時代は1914年、裕福な家の母親がその息子に、人としてどう振る舞うべきかを諭しています。
残念ながら、正確な台詞は覚えていませんが、母親が息子にこんなことを話します。
「裕福であろうと貧しかろうと人は平等である。そして、それを裕福なものが率先して示していかなければならない。」
この裕福な家庭には黒人の執事がいます。当然執事は、この家族には執事らしく恭しく振る舞うのですが、この家族もこの執事に対して、とても親しげに、そして敬意を欠くことなく振舞うのです。
私は、このシーンのこの台詞を聞いて、ワトルズが言う「高潔である」ことの真意が分かったような気がしました。
経済的に豊かになることで陥る罠
かつて私の上司だった人で月収100万円をもらっている方がおられました。
その方はお父様が開業されているアパレルショップを継いでおられたのですが、私とその方の共通の知人が起業をするということで引き継いだお店を辞め、その知人が始めた会社に勤めるようになりました。
私もそれからしばらく経って、その会社に入社しました。
その当時その方の役職は専務ということで、給料も固定で100万円を支給されていました。私は当時その方によく食事をごちそうしてもらい、公私に渡り、とてもお世話になりました。
とても気の良い方ではありましたが、少し気になることがありました。
それは収入が自分より低い人を見下すような発言をすることでした。
例えば、その方の地元の同窓会に出た後に、「高額の給料をもらっているという奴がいたけど、全然大したことなかった。こっちの給料を聞いて黙っていたので、支払いもみんなの分全部してやった。」というようなことを言われるのでした。
とてもお世話になった方なので悪く言いたくはないのですが、傍から見ているとそんな態度がとてもカッコ悪く映りました。
この方に限らず、収入が急に上がった方で、相手との収入の差でなんとなく態度や言葉遣いが変わる人を何人か見かけました。
私には、それがとてもカッコ悪く見えました。
裕福になることと高潔であること
もちろん、お金持ちになった人が全てそうなるということではありません。
むしろそうなる人は少数派だと思います。
ただ、私たちもそうなる可能性があるかもしれないということです。
今日の社会では競争に勝利した人や持てる者が評価をされやすくなっています。そして、それに慣れてしまった私たちは、その評価をそれ以外のことにまで持ち込むような悪い癖があるように感じます。
裕福な人が裕福でない人より、人格が優れているとは言えないことはじゅうぶん分かっていながら、私たちはそんな偏った見方を無意識にしてしまうことはないでしょうか。
私もありがたいことに年収が上がり、これまでより豊かな生活ができるようになりました。ただ、それもこれも世界中で働く人がいて、みんながこの経済社会をまわしているからだと思っています。
だから、私に入ってくるお金は経済の循環で私に回ってきたもので、私のモノであって私のモノではないと思っています。そして、たまたま比較的大きな金額が回っているところに仲間入りさせてもらっていると考えています。
私たちの存在価値は経済的な面だけでは測れません。
持たざる者でも、尊敬できる人はたくさんおられます。
大きな額のお金の循環に優れた人でありながら入っていない人も大勢いると思います。
だからこそ、持てる者は、その循環におられることに感謝し、その循環に入っていない人も分け隔てなく、神様が普遍的に与えている権利を重視して対応しなければならないのではないでしょうか。
ワトルズの教えでは、全ての人がお金持ちになるチャンスがあると言います。
自分は持てるものだと自負できる人は、そんなチャンスに恵まれていない人にチャンスがあることを生き方や存在感で知らしめ、手助けをする義務があると思います。
その時に大切なことは、上から見下ろす態度ではなく、対等に振る舞いながら、相手の成功や幸福を願うことではないでしょうか。
そして、同様に大切なことは、持たざると思っている人も同様に、高潔に振る舞うことではないのかと私は思います。